【※前提:経済成長を理解する法則(ペティ・クラークの法則)】
経済成長を理解するために「ペティ・クラークの法則」という公式を知っておく必要があります。これは、社会の発展に伴って、その国の産業の中心が「第一次産業(農林水産業) → 第二次産業(製造業) → 第三次産業(サービス業)」とシフトしていく現象をペティさんとクラークさんが発見したもので、ペティ・クラークの法則と呼びます。(別名を産業構造の高度化と呼びます。)
〈※参考:石油危機後のインフレへの対応について〉
【石油危機後の産業構造の転換】
石油危機によって石油の価格が上昇したことで、石油を特に使う産業である重化学工業がダメージを受けました。そこで、日本は第三次産業の比重を増やすことにしました。つまり、高度経済成長期の後に第二次産業から第三次産業への転換を始めました。(ペティ・クラークの法則の通りです。)具体的には、大きく3つの転換が見られました。
1つめは「省エネルギー型」への転換です。第二次産業は大きなエネルギーを使うことになるので、エネルギーを省力化していくことを日本は考えました。
2つめは「知識集約型産業」への転換です。知識集約とは「頭を使うこと」だと思って下さい。つまり、エネルギーではなく頭を使って稼ぐ産業に切り替えようとしているということです。(ITなどが代表です。)
3つめは「経済のサービス化&ソフト化」への転換です。社会全体の産業をサービス業に切り替えていこうと日本が考えた、という話です。
これら3つの転換の共通点は「重厚長大型の産業から軽薄短小型の産業へシフトしている」という点です。自動車やコンピュータ部品など、知識と技術を結集してつくれる製品に切り替えていったことになります。
なお、この時に日本は経営の合理化も進めています。当時の政策は大きく2つです。
1つは機械の導入です。工場で機械を導入したり(FA化)、会社のオフィスでコピー機などの機械を導入したり(OA化)することで、効率的に経営しようとしたわけです。
もう1つは減量経営です。高度経済成長期に景気の波に乗って大きくなりすぎてしまった企業もたくさんあります。そんな企業は企業の規模を小さくして景気の波に耐えようとしました。
【日米経済摩擦】
1979年に第二次石油危機が発生しました。再び、世界的に石油危機が発生し、世界同時不況となりました。
この状況で日本は、対米輸出の増加を行いました。しかし、石油危機の影響を受けているのはアメリカも同じです。さらに、アメリカは双子の赤字と呼ばれる財政赤字と貿易赤字の状態にあると同時に、レーガノミクスというレーガン米大統領の政策の失敗により、経済的に苦しい状況にありました。その状況で日本は、集中豪雨型輸出と呼ばれるくらいアメリカへの輸出をしすぎたため、「貿易面でのアメリカとの摩擦」が発生しました。これを日米貿易摩擦と呼びます。そこで、アメリカは日本に対していくつかの要求をしてきました。
1つめは「日米構造協議」という話し合いでの要求です。アメリカは、日本の市場開放を要求してきました。「アメリカも日本に輸出させろ」という話です。ところが、アメリカはそれだけでは要求が足りないことに気づきました。
そこで2つめは「日米包括経済協議」という話し合いです。アメリカが「アメリカからの輸入の数値目標を提示しろ」と要求してきました。日米構造協議以上に重い要求です。しかし、日本は数値目標を提示せずに悩んでいました。その結果、日本の企業が自主的に数値目標を発表する展開となっています。
このように、当時はアメリカからの圧力がかかっていたという事実がありました。(これ以外にも規制緩和などでアメリカが日本に自由化を迫ることはありました。)
なお、当時の日本企業は日米貿易摩擦の対策として、輸出の自主規制や現地生産を行うなど、様々な工夫をしたと言われています。
【国際経済の変化と日本の対応】
「国際経済」と来たら、まずは「アメリカ」を頭に思い浮かべましょう。現在のアメリカは世界経済の中心なので、国際経済はアメリカに注目すると理解が進みやすいです。
1960年代のアメリカは、ベトナム戦争などを要因に双子の赤字(貿易赤字+財政赤字)を抱えていました。そのため、アメリカドルは信用できないという流れが出てきました。しかも、その流れは止められませんでした。そこで、アメリカ大統領のニクソンは金とドルの交換停止を発表しました。(ニクソンショック)さらに、そこで石油危機が重なったこともあり、結果的に「固定為替相場制から変動為替相場制」へ切り替えることとなりました。
また、1ドル=○○円が変動するようになり、円安の状態だったため、日本の商品ばかりが売れるようになったことで、他の国が不満を持つようになりました。そこでG5と呼ばれる国々が集まってプラザ合意というのが採択されました。このプラザ合意によって円高ドル安に向かっていきました。そのため、円高で日本は不況になり、ドル安でアメリカ経済が回復しました。
ただし、日本は円高によって不況をうけることとなりましたが、当時の日本は深刻な不況にはなりませんでした。(円高ということは、日本の商品は高いですが、海外の商品は安いです。そのため、海外から原材料を輸入する時には安く済むというメリットもあり、大きな不況までは行きませんでした。)ですが、日本が不況を受けたことにはかわりません。そこで日本は、企業、日本銀行、政府の三者で円高について対策を考えるようになりました。
企業は、省エネルギー化の投資をさらに拡大させ、第三次産業の充実を進めていきました。また、一部の企業は「日本の商品が(他国と比較して)高い」ことをうけ、工場などの生産拠点を海外に進出させ、現地で販売することで儲ける戦略を考えました。このように、企業が生産拠点を海外進出することで自国の産業にまるで穴が開いてしまうような状態のことを産業の空洞化と呼びます。
日本銀行は、金融緩和を実施しました。具体的には公定歩合引き下げを行いました。
政府は、内需拡大政策を考えました。内需とは「国内需要」という意味です。つまり、日本国内の需要を刺激し、日本の景気を回復させていこうと考えました。具体的には輸入の拡大などを実施しています。
【平成景気(バブル景気)の発生と崩壊】
石油危機後の国内と国際の経済環境について、日本は対応に一定程度成功し、バブル景気を引き起こしました。(バブル景気は、戦後2番目の大きさの景気と言われています。1番目はいざなぎ景気です。)
日本は、安定成長を実現し、たくさんのお金を稼げるようになったことで、企業や個人にお金が余るようになりました。
そこで、企業や人々は自分達の手元で余っているお金を土地や株式などの資産とよばれるものに投資をするようになりました。すると、当時は景気が良くなっていたので、土地や株式の値段もどんどん上がっていきました。
その結果、資産効果(資産価値上昇に安心して支出が増加すること)によって実際に消費拡大が進みました。
ところが、このような景気が長続きはせず、泡のようにはじけて不景気になってしまいました。そのため、当時の景気の状態をバブル景気とよびます。
ただし、前提として景気や物価は急激に上がりすぎるのは良くありません。景気はゆるやかに上昇するのが重要なのですが、バブル景気は急激に景気がかなり良くなっていたため、政府が急激に良くなりすぎていた景気を抑制するために2つの政策を講じました。それが金融引き締め策(公定歩合引き上げ)と地価抑制策(土地の売買を目的とした融資の規制+地価税の導入)を行いました。この金融引き締めと地価抑制によってバブル経済が崩壊し、長期の不況へ向かっていくことになります。