「自由」とはなんでしょうか。
また、人々は「自由」だと思いますか。それはなぜでしょうか。
「自由とはなにか」という難解な問いを考えます。
【カントの「自由」】
高齢者に電車で席を譲るときに大切なことは、次のA~Cのうち、どれでしょうか。
Aは「目的(動機)」です。周りによく思われたいから、相手がかわいそう、など「なぜ譲るのか」が大切という考えです。
Bは「手段(過程)」です。「どうやって譲ったのか」が大切という考えです。
Cは「結果」です。譲る動機や手段よりも「譲ったという事実」が大切という考えです。
はたして、A~Cのうち、どれが最も大切なのでしょうか。
この質問に対して、カントという人はAの「目的(動機)」が最も大切だと考えました。
では、席を譲る目的で、最も良い考え方はなんでしょうか。
「周りによく思われたいと思った」という目的が理想でしょうか。それとも「相手がかわいそう」という目的が理想でしょうか。
この質問に対してカントは、席を譲る目的の理想は「定言命法である」と考えました。どういうことなのでしょうか。
何かを行動する目的(動機)には、多くの人は「○○ならば××しよう」というように理由をつけてしまうものです。しかし、カントは「××するぞ」のように、目的(動機)に理由は必要ないと考えました。もっと言うと、真の目的は「○○ならば」のような言い訳のようなことは出てこないと考えました。このように、理由をつける目的を「仮言命法」と呼び、理由をつけない目的を「定言命法」と呼びました。そして、カントは仮言命法がダメで、定言命法が良い、としました。
これらを踏まえ、カントは『「善意志」と「動機説」による「意志の自由」が大切である』と考えました。善意志とは、無条件に(理由なく)善いとされる行為のことで、動機説とは、行為の価値は結果よりも動機にある(結果<動機)という考え方のことです。そして、「善意志をやりたくてやる自由がある」という考えを「意志の自由」と呼びました。
つまり、カントの考えによれば、電車で席を譲るときに大切なことは「目的(動機)」であり、自分がやりたくてやっているので、その動機に理由は必要ない、ということになるわけです。(仮言命法は、人間の卑しい気持ちが入っていると考えました。)
なお、定言命法は「道徳法則(モラル)」で自分を律する(それに従う)ことで実現すると考えました。つまり、自分のモラルに従って行動すればそれが定言命法になるということです。この考え方を、意志の自律と呼びます。
【カントの「人格」】
カントは、もう1つの大きなテーマについての答えを探しました。それは、「どうすれば、世界から戦争をなくすことができるか。」です。
この質問に対して、カントは「人間」に注目して考えました。
カントは、「人間」について考えた時に、人間は「尊厳ある存在」だと考えました。尊厳ある存在とは「無限の価値を持つ」という意味です。人間には無限の価値があるのです。
そのため、無限の価値を持つ人間を戦争などで犠牲にしたり、利益を得るための手段として道具のように利用したりしてはいけないと考えました。逆をかえすと、人間はお互いを尊重することが大切だとしました。ここで言う「お互いを尊重する」とは「相手の自由を奪わない」という意味です。
つまり、人間は無限の価値を持つため、相手の自由を奪わないようお互いを尊重しあえば、人々が争うこともなく、世界から戦争をなくせるのではないか、と考えたわけです。このような状況を「目的の王国」と表現し、永久平和の実現を目指すために必要であるとしました。これら一連の考え方をカントは人格と表現しました。
【ヘーゲルの「自由」】
人生を自由か、自由でないか、という2択でキッパリと考えるのは難しいかもしれません。状況や環境によって自由度にも違いが出るでしょう。
では、人生の自由度はなにで決まるのでしょうか。
ヘーゲルという人は、「人倫」という言葉があてはまると考えました。
人倫とは、「自由は現実の人間関係で決まる」という考え方のことです。だとしたら、現代社会での人間関係はどのように決まるのでしょうか。ヘーゲルは、この人間関係は主観的な要素である「道徳」と、客観的な要素である「法」の2つによって決まる、と考えました。
つまり、人々の人間関係は人間の内側にある道徳という心の面と、人間の外側(=社会)にある法律という仕組みの面の2つで決まるというわけです。
また、ヘーゲルは人倫を3段階でとらえました。
人間関係の最初の段階は「家族」です。家族生活の中では、当然自由がありますが、家庭内にも必要なルールは存在するはずです。また、家族の次の段階で考えるべきは家族よりも大きなコミュニティとしての「市民社会」です。人々が普段生活している市民社会では、お互いに道徳を発揮しながら法を活用して、市民社会での自由を実現しています。
ところが、家族における道徳と法や、市民社会における道徳と法は、対立することも考えられます。(家族を優先すると、市民社会をないがしろにしてしまうことだって少なくありません。)そこで、家族と市民社会の両方のコミュニティが納得できる落としどころを作るように、最後の段階である「国家」が調整するとされています。
つまり、国家が家族と市民社会を調整することで、全てが上手く折り合いがつくようになる、という考えです。
このように、対立の中から新しい段階が登場する発想を「弁証法」と呼びます。(パンも食べたいが、ハンバーグも食べたいから、2つ組み合わせたハンバーガーを食べよう!みたいなイメージです。)
カントとヘーゲルは、それぞれの考え方で自由を実現するための方法と、なぜその方法で実現できるかという根拠を考えました。(なお、カントとヘーゲルの考え方をドイツ観念論と呼びます。)
はたして、本当の自由とはなんでしょうか。