物事の根拠について、古代は「理性」に根拠を求めました。(古代ギリシア哲学のベースが合理主義でした。)
中世は、根拠を「神・宗教」に求めました。(そのため、中世ヨーロッパの歴史では、教会が定期的に話題になります。)
近代は、再び「理性」に根拠を求めました。
【近代科学の考え方(「人間中心主義」と「科学的思考」)】
近代科学の考え方が出てきた背景の1つは「昔に戻る」という発想です。中世の「神に頼る」という考えが良くないとするのならば、中世より前の時代、つまり古代をもう一度思い出せばよいのでは?と考えたわけです。このように、古代(昔)を思い出して昔に戻ろうとする発想をルネサンスと呼びます。
そして、もう1つは「神に頼るという宗教の考えを変える」という発想です。宗教自体が変われば、もう一度頼っても良いのではないかと考え、宗教を大きく変える動きが誕生しました。これを宗教改革と呼び、ルターやカルヴァンなどが中心となりました。
これら2つの結論の影響によって、「近代科学」の考え方が登場しました。簡単に言うと「理性を活用した科学的思考」が確立しました。理性とは効率よく頭を使うこと、科学とは身の回りの「なぜ?」を解明することです。つまり、頭を使って「なぜ?」を解明していこうという考え方が登場しました。
当時は、「なぜ?」を解明するのに必要なものとして、「経験」や「知識」が重視されました。
〈※参考:近代科学を重視した人たち〉
そして、「なぜ?」を解明する際に、経験と知識のどちらを重視すべきか、という点で大論争が発生しました。その時の中心人物がベーコンとデカルトの2人です。
【ベーコンと帰納法(経験論)】
「アウトプットとインプットは、どちらのほうが大事か」という議論に対して、ベーコンという人がアウトプットを重視する立場を取りました。
ベーコンは、経験を積み事実をつかんでいくことで、一般法則を導き出せると考えました。事実から一般的な共通の法則を見つけ出す考え方を帰納法と呼びます。(経験がベースなので、経験論とも言われます。)
また、ベーコンは帰納法を前提に、2つの考え方を展開しました。
1つは、「獲得した知識は役に立つことが重要である」という点です。役に立つ知識を獲得することで、知識は自分の力になるため、ベーコンは「知は力なり」という言葉を用いて表現しました。
もう1つは、「4つのイドラの排除」です。イドラとは偏見のことで、4つのイドラを排除することでよりアウトプットの効果が高まると考えました。
イドラの1つめは「種族のイドラ」です。「人間固有の偏見」を種族のイドラと呼びます。
イドラの2つめは「洞窟のイドラ」です。「個人の経験によって抱く偏見」を洞窟のイドラと呼びます。
イドラの3つめは「市場のイドラ」です。「言葉の不適切な使用から生まれる偏見」を市場のイドラと呼びます。
イドラの4つめは「劇場のイドラ」です。「権威や伝統の受け入れによる偏見」を劇場のイドラと呼びます。
ベーコンは、経験論をベースとした帰納法を中心に、「知は力なり」や「イドラ」について言及しています。
なお、ベーコンの影響を受けた人物にロックという人がいます。
彼は、人間は「タブラ・ラサ(白紙)である」という思想を展開しました。ロックは、人間は生まれた瞬間は白紙のようになにも描かれていない状態であると考えました。つまり、人間は生まれながら何かをすでに獲得しているわけではない、という発想です。(生得観念の否定とも言われています。)
【デカルトと演繹法(合理論)】
テストで高得点を取るために、問題をたくさん解くこと(アウトプット)よりも、知識や理論を獲得(インプット)することを優先した方が良い(インプットを重視する)という立場を取った人の代表をデカルトと言います。
デカルトは、確実な知識や情報から導ける結論を重視した上で、推測していくことが大切だと考えました。この考え方を演繹法と呼びます。帰納法と逆の発想だと思ってください。(また、合理的に物事を推測していくので、合理論がベースだとされます。)
ただし、なんでもやたらに知識や情報を獲得しても意味がないとデカルトは考えました。
デカルトは、知識や情報を獲得する際に「その知識や情報は本当か?」と常に疑うことを大切にしていました。この考え方を「方法的懐疑」と呼びます。
そして、疑うことのできない正しい知識や情報だけを収集していけば、演繹法がより確実なものとなると考えました。
ただし、常に方法的懐疑を続けたときに、何が本当の知識や情報なのか分からなくなってしまいます。
そこで、デカルトは唯一疑うことができないものを発見しました。それが「疑うことを考えている私」でした。なにがあっても自分のことだけは疑うことができない、という話です。これを、デカルトは「コギト・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれあり)」と表現しました。
そのため、インプットを行う際は、必要な内容を吟味しながら自分を信じることが必要だというわけです。
また、デカルトは「自然現象(世の中)は機械のように分解して把握できる」と考え、要素に細かく分けることで理解できるとしました。この価値観を「機械論的自然観」と表現します。