経験と知識はどちらを重視すべきなのか(人間と近代科学の考え方)

内容に入る前に、時代区分についての確認が必要になります。以下の空欄①~③にあてはまる時代区分を入れましょう。

原始 → ( ① ) → ( ② ) → 近世 → ( ③ ) → 現代

 

答えは、①古代 / ②中世 / ③近代 ですね。

 

ちなみに、古代・中世・近代のヨーロッパはそれぞれ、物事の根拠を何に求めたのでしょうか。例えば、ある地域で地震が発生した場合、その地震の原因は何だと当時の人達は考えるのでしょうか。

古代は、「理性」に根拠を求めました。(古代ギリシア哲学のベースが合理主義でした。)

中世は、根拠を「神・宗教」に求めました。(中世ヨーロッパの歴史では、教会が定期的に話題になります。)

近代は、「理性」に根拠を求めました。

理性とは、「効率よく頭を使うこと」だと思ってください。そのため、地震を例に考えると古代と近代は理科の知識などを活用しながら理論的に地震の原因を解明していこうとします。一方で、中世は根拠を神や宗教に求めているため、地震は神が引き起こしたものであると考えるわけです。

ここまで読んで、違和感を覚えた人はいるでしょうか。

 

なぜ、近代は古代と同じように理性に根拠を求めたのでしょうか。(なぜ神に頼ることをやめたのでしょうか。)

この疑問から、近代ヨーロッパでの物事の考え方を確認します。

 

【近代科学の考え方(「人間中心主義」と「科学的思考」)】

中世の中心となった考え方をもう少し具体的に見ると、「神を絶対視すること」と「人間は罪深い存在である」ということがあげられます。この2つの考え方を使うと、教会という場所がトクし続ける状況が発生しますね。

もし、なにか悪いことがあったら「罪深い人間が神に頼らなかったのが悪い」と考えれば、教会をもっと信じようという状況が発生するわけです。でも、これは「教会が永遠に素晴らしい」ということが前提です。もし、教会の威厳がなくなってしまったら、神の絶対視は難しくなります。

そこで、教会に頼らず、自分たちでなんとかしていくために何が必要か、ということが考えられました。そして、2つの結論が導き出されました。

 

1つは、「昔に戻る」という発想です。中世の「神に頼る」という考えが良くないとするのならば、中世より前の時代、つまり古代をもう一度思い出せばよいのでは?と考えたわけです。このように、古代(昔)を思い出して昔に戻ろうとする発想ルネサンスと呼びます。

 

そして、もう1つは「神に頼るという宗教の考えを変える」という発想です。宗教自体が変われば、もう一度頼っても良いのではないかと考え、宗教を大きく変える動きが誕生しました。これを宗教改革と呼び、ルターカルヴァンなどが中心となりました。

 

これら2つの結論の影響によって、「近代科学」の考え方が登場しました。簡単に言うと「理性を活用した科学的思考」が確立しました。理性とは効率よく頭を使うこと、科学とは身の回りの「なぜ?」を解明することです。つまり、頭を使って「なぜ?」を解明していこうという考え方が登場しました。

では、解明していくために必要なものは、なんなのでしょうか。

当時は、「なぜ?」の解明に経験や知識が重視されました。

 

※参考:近代科学を重視した人たち

コペルニクス(地動説)、ガリレオ、ケプラー、ニュートン(万有引力)などがあげられます。

 

そして、「なぜ?」を解明する際に、経験と知識のどちらを重視すべきか、という点で大論争が発生しました。その時の中心人物がベーコンデカルトの2人です。

 

 

【ベーコンと帰納法(経験論)】

“ テストで高得点を取るために、問題をたくさん解くこと(アウトプット)と知識や理論の獲得(インプット)のどちらを優先するべきなのでしょうか。”

 

もう少し広く考えると、アウトプットとインプットは、どちらのほうが大事か、という議論ですね。

この議論に対して、ベーコンという人がアウトプットを重視する立場を取りました。

 

ベーコンは、経験を積み事実をつかんでいくことで、一般法則を導き出せると考えました。

例えば、A、B、Cの3人がいて、AもBもCも死んでしまった場合、「ヒトは死ぬものである」という結論を導き出すことができます。このように、事実から一般的な共通の法則を見つけ出す考え方帰納法と呼びます。(なお、経験する中で共通法則を見つけるという意味で経験論とも呼びます。)

これをテストにあてはめると、テストで高得点を取るためにはたくさんの問題を経験して、問題の一般法則を見つけるのが効率良い勉強であると言えそうです。

 

また、ベーコンは帰納法を前提に、2つの考え方を展開しました。

1つは、「獲得した知識は役に立つことが重要である」という点です。役に立つ知識を獲得することで、知識は自分の力になるため、ベーコンは「知は力なり」という言葉を用いて表現しました。

もう1つは、「4つのイドラの排除」です。イドラとは偏見のことで、4つのイドラを排除することでよりアウトプットの効果が高まると考えました。

イドラの1つめは「種族のイドラ」です。よく、男性は理系が得意で女性は文系が得意だということを言う人がいますが、文系が得意な男性も、理系が得意な女性もいるはずです。このような、「人間固有の偏見」を種族のイドラと呼びます。

イドラの2つめは「洞窟のイドラ」です。今まで解いてきた過去問は難しかったから、今回の試験問題も難しいだろうと思い込む人がいますが、実際の試験は解いてみるまで分かりませんね。このような、「個人の経験によって抱く偏見」を洞窟のイドラと呼びます。

イドラの3つめは「市場のイドラ」です。あの大学の入試問題は難しいらしいわよ、なんてうわさを聞いたら入試問題に対して身構えてしまうかもしれませんが、本当かどうかは解いた本人にしかわかりませんね。このような、「言葉の不適切な使用から生まれる偏見」を市場のイドラと呼びます。

イドラの4つめは「劇場のイドラ」です。東京大学の入試問題は、日本最高峰の大学なんだから難しいに決まっている!と思っていても、どの程度の難しさかもわからず、「東大」というブランドだけで難易度を勝手に判断してしまっていますが、実際は分かりませんね。このような、「権威や伝統の受け入れによる偏見」を劇場のイドラと呼びます。

ベーコンは、経験論をベースとした帰納法を中心に、「知は力なり」や「イドラ」について言及しています。

 

なお、ベーコンの影響を受けた人物にロックという人がいます。彼は、人間は「タブラ・ラサ(白紙)である」という思想を展開しました。つまり、人間は生まれながら何かをすでに獲得しているわけではない、という発想です。(生得観念の否定とも言われています。)

 

 

【デカルトと演繹法(合理論)】

テストで高得点を取るために、問題をたくさん解くこと(アウトプット)よりも、知識や理論を獲得(インプット)することを優先した方が良い、という発想もあるでしょう。

インプットを重視する立場を取った人の代表をデカルトと言います。

 

デカルトは、確実な知識や情報から導ける結論を重視した上で、推測していくことが大切だと考えました。この考え方を演繹法と呼びます。帰納法と逆の発想だと思ってください。(また、合理的に物事を推測していくので、合理論がベースだとされます。)もし、A、B、Cの3人がいて、「ヒトが死ぬ」ということが事実であれば、AもBもCも将来的には死ぬだろう、という予測が立ちます。では、

 

“ 知識を獲得する際に必要となること(意識すべきこと)はなんでしょうか。”

 

デカルトは、知識や情報を獲得する際に「その知識や情報は本当か?」と常に疑うことを大切にしていました。この考え方を「方法的懐疑」と呼びます。ただし、常に方法的懐疑を続けたときに、何が本当の知識や情報なのか分からなくなってしまいます。そこで、デカルトは唯一疑うことができないものを発見しました。それが「考えている私」でした。つまり、自分自身だけは疑うことができない、という話です。これを、デカルトは「コギト・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれあり)」と表現しました。

また、デカルトは「自然現象(世の中)は機械のように分解して把握できる」と考え、要素に細かく分けることで理解できるとしました。この価値観を「機械論的自然観」と表現します。

 

ベーコンの考え方も、デカルトの考え方も、どちらも素晴らしいように感じますが、はたして人間は「経験(アウトプット)」と「学習(インプット)」のどちらを優先すべきなのでしょうか。

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