2-1. 日本の憲法は昔と今で何が違う?(大日本帝国憲法の特徴と日本国憲法との比較)

日本には、これまでに2つの憲法がありました。それが、

① 1889年に制定された 大日本帝国憲法(明治憲法)
② 1946年に公布された 日本国憲法

の2つです。

 

では、この2つの憲法は、いったい何が違うのでしょうか。

 

簡単に言うと、

誰が国の中心なのか(天皇主権 か 国民主権 か)
・国民の権利がどこまで守られているのか(法律の範囲内の権利 か 侵すことのできない権利 か)
・軍隊・戦争をどう位置づけているのか

などのポイントが大きく異なります。

 

このページでは、まず 大日本帝国憲法の中身 に注目し、
・天皇を中心とした政治のしくみ
・「臣民の権利」がどのように扱われていたか
・日本国憲法とのちがいが分かる比較ポイント
・大日本帝国憲法から日本国憲法へ移り変わる流れ

を整理していきます。

▶ 日本国憲法を先に確認してから比較したい方はこちら(日本国憲法の三大原理とは?最高法規性・硬性憲法という2つの前提から確認する)をご覧ください。

 

【大日本帝国憲法の内容とは : 天皇主権の国家システムと「臣民の権利」】

大日本帝国憲法の基本――欽定憲法と天皇大権

大日本帝国憲法欽定憲法(=天皇が制定した憲法)なので、大日本帝国憲法の前提は「天皇を中心に考える」ことです。天皇に注目しましょう。

 

天皇を中心とした政治機構――枢密院・帝国議会・内閣・裁判所

まず、大日本帝国憲法は天皇大権があり、天皇が統治権総攬します。
総攬は全ておさめること、という意味です。
つまり、大日本帝国憲法によって、日本は天皇がすべておさめている状態になります。

そのため、天皇の諮問機関として枢密院があり、天皇の協賛機関として帝国議会が、天皇の輔弼機関として内閣が、天皇の代理機関として裁判所がありました。これらの機関は全て天皇を支えることが前提となっており、やはり天皇中心の政治システムであることが考えられます。

ただし、政治機構(帝国議会・内閣・裁判所)に対して、超然内閣(議会を無視した政策を行う内閣)も登場するなど、多少の混乱は見られました。

 

臣民の権利と法律の留保――治安維持法と普通選挙法の同時成立

また、当時の国民は「臣民」と呼ばれ、臣民の権利は法律の範囲内で認められることになりました。これを法律の留保と言います。

つまり、作る法律次第で当時の人々の権利を簡単に奪うことができる、という話ですね。
例として、治安維持法などがあげられますが、一方で大正デモクラシーの流れを受けて治安維持法と同じ年に普通選挙法(男子普通選挙の実現)が制定されたことも注目でした。

 

統帥権の独立と軍部の暴走

さらに、統帥権(軍部の最高指揮権)を独立させています。
(統帥権を憲法上、内閣や議会から切り離して独立させた結果、軍部が「自分たちは天皇から直接命令を受けている」と主張し、政治からコントロールしにくくなった点が、後の戦争拡大につながったと指摘されます。)

 

〈日本国憲法と比べたときの権利保障のちがい〉

では、こうした大日本帝国憲法のもとで、人々の権利はどのように扱われていたのでしょうか。
現在の日本国憲法と比べてみると、違いが見えやすくなります。

権利によっては、大日本帝国憲法と日本国憲法で扱いが同じだったり、異なったりしていたので、整理しておきます。

 

まずは、大日本帝国憲法でも保障されていた権利です。「表現の自由」と「信教の自由」が保障されていました。

次に、大日本帝国憲法の段階では保障が不十分だった権利です。「言論・集会・結社の自由」と「人身の自由」が不十分でした。

そして、大日本帝国憲法では保障されていなかった権利です。「学問の自由」、「思想良心の自由」、「職業選択の自由」の3つが保障されていませんでした。

なお、「地方自治」と「違憲立法審査権」は、規定がなかったとされています。

 

〈皇室典範の位置づけ―憲法と同格から「法律」へ〉

皇室に関する事項を定めたものを皇室典範と呼びます。

大日本帝国憲法の時は、皇室典範は大日本帝国憲法と同格として扱われましたが、
日本国憲法では、皇室典範は法律扱いとなりました。

 

 

【大日本帝国憲法から日本国憲法へ(制定の経過): 敗戦後の憲法改正の流れ】

大日本帝国憲法の性質をふまえたうえで、
次に「どのような経緯で日本国憲法に切り替わっていったのか」を確認しておきましょう。

 

ポツダム宣言と新しい憲法づくりのスタート

日本国憲法は、第二次世界大戦後(日本の敗戦後)に作られました。

日本の敗戦と言えばポツダム宣言は有名です。そのポツダム宣言の後に、GHQのマッカーサーが新しい憲法を作るよう指示を出しました。

 

松本案の作成と GHQ による拒否

そこで、松本烝治という人による松本案が作成されたのですが、この案が大日本帝国憲法とそんなに変わらないという理由で、GHQに拒否されました。

 

マッカーサー草案と帝国議会での審議・修正

その結果、マッカーサー草案という現在の憲法のもとが作られました。

そして、マッカーサー草案を帝国議会で審議し、修正し、可決したことで日本国憲法が成立しました。この帝国議会が大日本帝国憲法の下での最後の議会です。

 

こうして成立した日本国憲法が、どのような原理にもとづいて作られているのか―次の記事では、日本国憲法の三大原理と、その前提となる視点を見ていきます。

 

【あわせて読みたい】

 

【※参考:大日本帝国憲法のまとめ】

このまとめで確認すること

・大日本帝国憲法の特徴(欽定憲法・天皇主権)
・ 大日本帝国憲法における「臣民の権利」と日本国憲法とのちがい
・ 皇室典範の位置づけの変化
・ 大日本帝国憲法から日本国憲法へ移り変わる流れ
・おさえるべき視点

 

1.大日本帝国憲法の特徴(欽定憲法・天皇主権)

・大日本帝国憲法は、天皇が制定した「欽定憲法」 であり、天皇が「統治権を総攬」すると規定していた
・枢密院・帝国議会・内閣・裁判所などの機関は、いずれも天皇を支える機関として位置づけられていた
・統帥権(軍部の最高指揮権)を独立させたことで、軍部が政治からコントロールしにくくなり、戦争拡大の一因となったとされる

 

2.臣民の権利と日本国憲法とのちがい

・当時の国民は「臣民」と呼ばれ、臣民の権利は「法律の範囲内で認められる(法律の留保)」とされていた
・そのため、治安維持法のような法律を作れば、人々の権利を大きく制限することも可能だった
・一方で、表現の自由や信教の自由など、一部の権利は大日本帝国憲法のもとでも認められていたが、言論・集会・結社の自由や人身の自由などは不十分で、学問の自由・思想良心の自由・職業選択の自由などは保障されていなかった
・日本国憲法では、これらの権利を「侵すことのできない永久の権利」として、より強く保障している

 

3.皇室典範の位置づけ

・大日本帝国憲法のもとでは、皇室に関する事項を定めた「皇室典範」は、憲法と同格の存在として扱われていた
・日本国憲法のもとでは、皇室典範は「法律」の一つとして位置づけられ、国会で改正できるようになった

 

4.大日本帝国憲法から日本国憲法への流れ

・日本国憲法は、第二次世界大戦での敗戦後、ポツダム宣言の受諾をきっかけに作られた
・松本烝治らによる松本案は「大日本帝国憲法とあまり変わらない」として GHQ に拒否され、マッカーサー草案が作成される
・このマッカーサー草案をもとに帝国議会で審議・修正が行われ、日本国憲法が成立した(この帝国議会が、大日本帝国憲法の下での最後の議会)

 

おさえるべき視点

覚え方の軸は、「誰が主権を持ち、国民の権利をどこまで認めているか」です。

・天皇主権・臣民の権利(法律の範囲内) …… 大日本帝国憲法
・国民主権・基本的人権の尊重(侵すことのできない権利) …… 日本国憲法

この違いをおさえておくと、日本の憲法の「昔」と「今」のちがいが、入試でも日常感覚でも整理しやすくなります。

タイトルとURLをコピーしました